6月27日(月)旧越後街道古道調査の実施

 日本山岳会創立120周年記念事業として取り組んでいる「山岳古道調査・120選」については、これまで何度かブログにアップした。今回の調査は、福島支部が担当する9つの古道のうち「旧越後街道」の調査をスタートさせたもの。
 旧越後街道は、下略図のように会津若松から会津坂下~西会津野沢を通り新潟県新発田までの古道である。
 会津若松から新発田までの間、「束松」「車」「鳥井」「諏訪」という4つの峠を越えるが、それほど険しい峠でない。江戸時代の初期に会津藩により整備され、会津藩と新潟湊との商品交易路で、新発田藩や村上藩の参勤交代に利用したことから「殿様街道」とも呼ばれ、また、十返舎一九や吉田松陰など歴史上の人物も歩いたと言われる。
 しかし何といってもこの街道を世界に広めた「英国人女性探検家イザベラバード」の存在なしには語れない。 イザベラは、明治11年、日光から蝦夷地まで馬の背に乗り旅した。行く先々の日本人の日常を記録し、「日本奥地紀行」に記した。明治開花期の庶民の姿を見聞きし、そのままの姿を世界に発信した。
 一方イザベラは、およそ10年後に隣の韓国も旅し、当時の李氏王朝と両班(りゃんばん)による政治支配を目のあたりにして驚きを隠せなかったようだ。
  また幕末の会津藩にとってもこの街道は思い入れが強い。戊辰戦争後の混乱をこの峠道はどのように見、受け止めてきたのか。束松峠はじめ地元有志が今なおその復活と保存に努めていることあらためて賞賛したい。

旧越後街道の概略図
越後街道

イザベラバード「日本奥地紀行」
イザベラバード

旧越後街道の面影を残す会津坂下「気多宮」の標識
沼田街道はここが起点(追分)、柳津只見を通って桧枝岐、尾瀬、上州沼田と通じる
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会津坂下町天屋地区にある「束松事件」の看板
会津藩士伴百悦が、明治新政府役人を惨殺した現場。伴はここから
束松峠を越え越後に逃げたが捕縛され馘首刑となった。

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天屋宿(集落)の分かれ道を右に行くと束松峠 
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束松峠入口の標柱。ここを登ると三代目の「束松」が保存されている。
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草に覆われていた標柱を見つける
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束松峠の会津坂下側登り口から西会津側の下り口となる「軽沢宿」に移動
軽沢宿は戸数約10戸、高台の小学校・分校跡地は畑地になっていた
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磐越自動車道の高架下に「旧越後街道」を示す標柱、真新しく道も刈り払われていた
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指さした方角が束松峠山頂方面
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右に下っていくと軽沢宿
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 地元守る会による刈払いなど整備が行き届いている
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束松峠の帰り道軽沢宿の鈴木さん宅を訪問
88歳のおばあちゃんは峠のことを快くお話してくれました。
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大雨の中、束松峠調査を切り上げ、車峠(西会津町・上野尻)に移動
途中、八幡太郎義家伝説の「冑神社」を参拝

岩に掘られた社殿はなんとも言えば良いのだろう
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冑神社をイザベラも参拝したのだろうか
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なんと、菊の御紋(天皇家御家紋)も彫られている
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冑神社鳥居は、会津黒川城主芦名義廣の末裔が
昭和52年に建立したと彫られている。
 上野尻の宿外れに古峰ヶ原神社がまつられ、そのまま進むと「車峠」入口に着く
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西会津町上野尻に移動、車峠の入口、ここを登ると「鳥井峠」につながる
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車峠の整備状況
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今回の調査メンバー記念写真
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最期は喜多方慶徳の長床「熊野神社」参拝で終了
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以上参加者 佐久間、幕田、渡部、江花、竹永